浮かんでは消えていく思考の流れは止まらないどころか、どれが自分のものであったかもはや分からない。たくさんの流れと接しているとぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまって元の形なんて分からなくなってしまう。
エスカレーターに乗るタイミングが分からない。唐揚げとレモンサワーは「あう」らしい。悪くないのに謝らないといけないことがあるという。
なにも、分からない。
街を歩く有象無象にはそれぞれに時間という軸でもって計り知れないほどのバックグラウンドがある。テレビに映っている最近話題の俳優も、横断歩道ですれ違う疲れ顔のサラリーマンも、北海道の端っこのコンビニでシフトに入っているアルバイトも、同じ世界で生きている。
こんなことは当たり前のこと。だがそのことを認識すると漠然とした、しかし巨大な無力感と厭世感を感じる。それらが大きな力をちらつかせながらこちらへやってくる。
私には向いていないのかもしれないとぼんやりと感じる、生活が。
何もせずには生きていけない社会のなかに、膨れ上がった私がある。
その私の範囲はいつしか自分自身にも全容がつかめないほどに肥大して、世界そのものを包み込んでしまう。世界が自分のなかに取り込まれていく感覚。理解できないことの全ても私に含まれていく。その感覚は自分が神様にでもなったような優越感、ではなく、分からないまま苦しいものさえ呑み込んでしまわなければならない息苦しさだけを連れてくる。
世界には、知らないことのほうが多い。街を歩く人も、遠くの喫茶店の今日のブレンドも、知らない国の8時のCMも、砂漠で飛んでいる乾いた砂のことも。
私がこれらを知ることはない。知ることはないとしても、ここにいるのだから。私がおそらくは知らないままでもいいのだと思う。それは知ることが不可能だということと、知っても何にもならないということ。しかし、そうした知らないことのほうが多い世界のなかで、私が何を感じたとしてもそれは壁打ちに過ぎないのではないか。誰に届くことも、もしかすると未来の私にすら届かない言葉しか私は生み出せないのではないか。そんなふうに感じてしまう。
恥ずかしい話、まだ私はなにも諦められていない。
欲しいおもちゃ、羨ましい体験、そんなすべてが欲しい子どもが、少しずつ現実と向き合って諦めていく営みを大人になることだというのであれば、私はいつまでも大人になれることはないと思う。
すくって欲しかった。この場所から、苦しみから、つらさから。すくって欲しかった、空に浮かぶすくわれたアイスの表面みたいな雲の下で、すくわれることのない。
(下沖)
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