言葉を、やめてしまった。
言葉を?
ものを書くことを。
感情が大きく動いたとき、この機微を忘れたくないと思ったとき、書きとめるようにしていた。少ない語彙から、精度の良いわけではない選び方で、感情をできるだけそのまま書きとめるようにしていた。
ことがあった。
少し前までそうしていた。
ふと、最近書いていないと思い出した。
ものを書くことは体力がいることだ。忘れたくないと思うほどの感情を書きとめるために、自分の心と向き合うことは辛いことだ。それでも昔はやっていたのだ。
どうしてやめてしまったんだろう。
体力がなくなった、
言葉を受け止めてくれる人を失った、
それほど感情が強く動かされることが少なくなった、
書きとめる必要がなくなった。
どれもその通りだと思う。
生活に疲れてきているし、私の言葉を毎日のように受け止めてくれていたそんな稀有な存在さえ失った。疲れからか感情の起伏は小さくなったし、いつか本におこすときに分かりやすいようにと書いていたけど、本におこすこともないだろうなんてぼんやりと考えたりしている。
そうして私は、私が変わっていることを知る。ああ、停滞しているだけだと思っていた私も、変化しているのだなと、ぬるい安心に浸る。これが成長なのか後退なのか分からないけど、とりあえず変わっている。
芝居に魅力を感じなくなってきている。
人生の半分以上浸かりながら過ごしてきた演劇が、私の心をときめかせることが本当に少なくなった。今でも、いい芝居をみると「こんな芝居をしたい」と思ったりするが、それもつかの間で本を書くにはいたらない。どうしてももう書けなくなってしまった。筆も心も、もう折れている。
失うことは怖い。演劇と向き合っていない時代のことを思い出すことができない。どのように生きていたか分からない。そんなものを私は失いかけている。
ものを書いてきたことが、人生の中で役に立つことは少ない。レポートの文字稼ぎがうまくなったことくらいで、他は本当に分からない。時間も精神もすり減らしながらやっているが、いいことはほとんどない。
だけどやめられない。
こうしてまた書いていて気づく。誰かに見せるために書いているわけではない(とはいいつつこうして記事にはしているけど)。強いて言うならきっと、未来の私のため。いつかの私が何を考えて生きてきたのか、分かるように書いている。
毎日大学と部活とバイトとちょっとだけの趣味とを繰り返すだけの生活による疲れも、誰が受け止めてくれるわけでなくても、今を書く。小さくなってしまった感情の動きもだからこそそれをおこすことに価値を感じるし、本になんかしなくても書く。
だって、こうして今も書いている。
分からないことが分かるようにならなくてもいいと、先輩が言っていた。
いいものがいいと、当たり前のことを先輩が言っていた。
周りから気持ち悪がられる上辺だけの自分さえ、愛せたらいいと思えるようになったのはきっと、そんな自分を省みるための足跡が残っていたからだ。
言葉にするには体力がいる。そんなこと分かっている。だからやっている。言葉にすることは私が生きていたことを私に伝えるために、ほかの誰でもなく数年後の私に、ちゃんと今、こうして私がここにいること、それを残していくこと。そうして私は私と向き合う。
いつまでたってもここにいて、変わっていないようで変わっている、私。
これまで通り、内向きに、世界を見つめる。内向きだって、貫いてしまえば外向きだ。考え抜くことが必要だ。
世界と分かり合うために、一番最初に分かり合うべきは私だ。私の世界から、外に向けてのラブコール。届かないかもしれないが、それでも私は愛している。
(下沖)
Comments